測りたがりの痛がり屋

まいにちの記録

健やかな夏?

健やかに生きていると思う。

なにか手持ち無沙汰になることもあるし、深夜にパニックになることもよくある。生きづらさは相変わらずでも大きく飲まれることは減ってきた気がする。年の功なのか、慣れなのか、ただそういうフェーズなのか。知らないけど。

自分の気持ち悪さに目を向けられない時期が長いことあって、文章を打つのも絵を描くのも、私はただ自分に酔いしれたいだけなのだ、と気づいて心底ぞっとしていた。だからしばらく、今もだけど創作より仕事に明け暮れてる。

 

「A子さんの恋人」をやっと最新刊買って、もう大体忘れてるはずだから半分くらいから読み返した。A子さんのこと、私もあこがれてた。I子の分身みたいな人が、自分も含めて世の中にはたくさんいる。その人達を見るたびに自分を見るようで、またその量産型さというか…(私は性格が悪い)勝手に嫌悪したり恥ずかしがっていたけど、改めて読み返すとI子もひとつの個性というか、人間らしさがあって親しみやすくて、同じようになりたくてもなれない人がいるんだろうなと思えてきた。自分の中で少し変化したことだ。いつだって私たちは無い物ねだりだ。

 

もう好きな季節に移行し始めているし、夏の良さもちょっとだけわかり始めてもきた。じめじめした夏はただただ苦しくて汗のしたたるのも気持ち悪く最悪だけど、本当に気のいい夏の下ではカラッとした汗をかける。健康的な気持ちになる。何よりビールが美味しい。私のコロナ期は正直、コロナ前よりも行動的だった。

すっかり顔馴染みのパンちゃんとGOTOを使って電車に揺られ伊豆の遠い旅館に泊まったり、イラストレーター友達と横浜のホテルに泊まり中華街で食べ放題したり、愛しメガネちゃんと果実たっぷりかき氷を食べ、たくさん歩いて河川敷で花火をしたり、彼氏と熱海の客室露天風呂付き高級旅館にこれまたGOTOで泊まったり、だ。こんなに一般的に私も夏を楽しめるなんてびっくりした。手足もかわいくネイルして、髪を短く切って、隠れて少し後ろを刈り上げたのも気持ちがよかった。

良い夏だったのだ。

でも何かダメなのだ。

心の余裕ができたような気になっているのは、金銭的余裕も出てきたからかもしれない。でもこんなこと行ったら金運の神様に見放されてしまうかもしれないけど、仕事、お金を稼ぐことに少々飽きてきてしまった。

実は満たされているようなのは見掛け倒しで、私は結局満たされていない。それはやっぱり、自分がやりたいことをできていないからだと思うし、でも自分がやりたいことに対して迷走しているのも相変わらずで、どうしたらいいのかわからない。

健やかさとはやはり程遠いのだった。