測りたがりの痛がり屋

まいにちの記録

漫画ふれなばおちんを読んだ(ネタバレ含む)

漫画ふれなばおちんのラスト.........!!!!!!!!!!!!!!!!!!???????????????????????????????????????????????????????????????????

〈ネタバレ含みます〉

 

 

読んだばっかだから感極まっているのだが、一体全体どうしてあのラストになるのか!?なぜ佐伯さん事故にあって終わるの??なんで??それはなくないか?あんまりじゃないか?あれだけ頑張ったんじゃないか夏さんも佐伯さんも。

 

現実だったら、そのようなことが起こるのは分かる。慈悲のかけらもないこと、想像もできないこと、なんでもありの世界、起こってしまったことは起こってしまったこと、全ての人が諦めたり受け入れて生きている。でも漫画で起こることは全てなんらかの意味がある。だってストーリーだもの、誰かが考えているのだもの、それを読む読者がいるのだもの。。。たとえ実話だったとしてもこのラストは少しないんじゃないか。せめてもう少しその後を書くとか、何か、何かあったんじゃないか、11巻まで、主婦になった気持ちになってそれはもう楽しく読ませてもらったけど、こんな終わりは想像もしていなかった。。。。。。

 

それだけの罪だといいたいんだろうか。家族がいる中で、別の誰かを愛すことって。それは十二分にお話の中でわかったのに。すごくすごく苦しいほど伝わったのに。最後に佐伯さんが事故に合う意味。(実は死んだかもさだかでなない、唐突に、ラストで事故に合い、それから数ページで完。夏さんは知らないまま、彼が事故に合ったという事実だけ読者に知らされる)

 

おこちゃまの私には想像もできない何かを伝えたいんだろうか。あっ!事故のように人を愛し、最後には本物の事故に合う、ってやつかな。掛けてるのかな?ちがうかあ

それとも話の中でなかなかにかわいそうな旦那さんが、最後には浮気相手いなくなったしこれでもう、心配いらないねってやつか?それでいて初めて、夏さんも佐伯さんを忘れられるね、相手が死にでもしなければ、永遠に平和が来ないものね。ってそういうことなんだろうか。このようにいろいろ想像させて考えさせることが目的?まだ未遂の人たちへの警鐘か?

ぐああああああああ。やられた。私の中でかなりの問題作だ。

面白かっただけに、いろいろとリアルだっただけに、このラストはかなりの衝撃だった。。。うーん。。

GW半ば

親友が帰ってしまった...帰ってしまった。

 

小学中学高校とずっと一緒にいた彼女は、まるでスポンジみたいな女の子だ。わあ、これって頭軽いみたいな雰囲気あるけどそうじゃなく笑 スポンジボブ好きでよく落書きしていたイメージと、あとは私の言葉をぐんぐん吸ってくれることだなあ。それでいて、ずっしり重くなったりせず、ちゃんとスポンジのままというか、私の言葉を空中でふわふわ遊泳させてくれるというか、彼女は彼女のままで、私は安心して思ったこと感じたことを話すことができる。聞き上手なんだなあ。

要は、人なんてそれぞれが自分でいっぱいいっぱいだ。そんなのは当たり前じゃないのかしらと思う、無理して私を受け止めて全身で感じてほしいんじゃない。自分を見つめ直す余白が欲しかったり、そしてちょこっと、共感して欲しかったり、その具合、バランスが大変ぴったりな人なのだ。私は彼女のそれになれているかという自信はない、でも、それだけ私はリラックスして、幸せになれるので、余計に彼女が好きになり、彼女の幸せを願うし、彼女の話を聞きたいと思う。人間鏡だというけれど、こういうことなのかなあと思う。

少し心がすれてしまっていると、優しさをどこかに落としてきてしまっている場合が多い。それを拾ってくれる人がいて初めて、私、なんだか怖い暗い人間だったなとハッとする。省みて、また優しさを取り戻す。不安定だしずるいし素晴らしい人間とはいえない、でも、優しくいるよう努力することはできるから。思い出すことだって、誰かを思いやることだってできるから。捨てたもんじゃない、ゆっくりやってこう思う。

帰ってしまった友人が、帰った先で、無理せず、彼女らしく、生活できますように。また彼女と、美味しいお酒をたっくさん飲めますように、と、少し元気になった心で、健康的に願う。

 

yoyopparai.exblog.jp

 

GWの幕開け

GWだ。ただ今現在は若干テンションが低い。楽しみにしすぎたからなのか、イラストがはかどらないからか、テレビをつけると、こちらは月火と休みではなかったから今からGWの始まりだというのに、もうGW後半...なんて言ってるからか。

 

福井に住んでる友人が、毎年GWになると東京に遊びに来てくれる。その人を今、電車で駅まで迎えに行くところ。先ほどテンションが低いと言ったけど、駅がひとつひとつ近づくたび、文を打ち進めていくたびに、少しずつ元気が戻ってくる。ようやく、GWの幕開けだ。

友人のお手伝い

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友人が文学フリマに出るらしく、その表紙を描かせてもらいました。長く付き合いのある友人で、早稲田大学出身、編集やライターをしている。確かに大変魅力のある文章を書く尊敬する人なんだけど、まあなかなかにぽけーっとしていて、大変前から描いて欲しいと言っていたのに5日前に詳細を送ってきた。仕事があるので実質2日。この野郎と怒ったこともあるし実際彼女も読んでいるこのブログでこんな風におおっぴらには書くけれど、なんだかんだ彼女とコラボできることは光栄で、どうも喜んで描いてしまう。これが彼女を自由にさせてしまう原因なのかしら。。。早く、中身が読んでみたい。ちなみに裏表紙はまだ描けてない。

演劇とビール

昨日は久しぶりに演劇というものを日暮里まで見に行った。古くからの親友が出ているのでどんなに演劇自体が面白くなくても楽しいだろうと踏んで、だ。自分の顔見知りがどういった演技をするのか、それだけでも見る価値があると思って、意地の悪い赴き方をしてしまった。少し体調も悪く、面白いのか分からないものに博打をする元気はなかったから。

 

ふたつの劇団が、おんなじ台本を演じていた。お話の内容は不条理劇ということで、自分の居場所がなかったら困るとみかん箱を自分の居場所として持ち歩いてしまう男、彼はあらぬことまで念には念を入れ、予測や想像でどんどん事を進め話すウザい奴。(あそこまでひどくないにしても、こういう人いるよなあ、というより自分もしてるときあるなあとドキッとする)もう一方は赤い傘を好きな時にさし、好きな時に閉じ、ゆっくり歩く女、彼女は思ったことをそのまま口にし、自由気ままに行動する。

次は排泄を死ぬまで我慢する男と、言われるままに動き自分の意思のない、人を殺せと言われれば殺そうとする男、登場人物はそんな感じ。この4人が後に絡み、不条理ー!ってなかんじで話が進む。(いい加減なあらすじごめんなさい)

 

どっちの劇団もそれぞれの解釈で演じていて違うものになっていた。印象としては鬼才で頭の良い、演出が個性的なのが前者(親友が出ていたもの、彼女は普段と違う随分きれいな声ではっきり話し、男の手を後ろで縛って、長い間男の上に乗っかっていた)。後者は王道に、シンプルに話を演じていて、それぞれが演技の巧みさに長けていた。

 

絶対的に比較が生まれて行く中で、引けを取らず自分たちの持ち味を持っているのが面白かったし、表現の面白さ難しさ、バランスなどにまで考えが及んだ。劇自体も面白かったし、2つが同じものを演じたところも気に入った。

 

演じた訳じゃないのに、帰って飲んだビールが美味しかった。私ってば心の体力がないけど、世の中には面白いことがたくさんあるのだから、前向きに生きなきゃなあと思えたのだ。ありがとう。

矛盾する

突然だけど、自分の飽き性で気分屋で情緒不安なところが本当にいやだ。楽しいな幸せだなという気持ちの持続がすごく短い。その幸せな時でさえ、これからこの気持ちがころっと変わる瞬間を怯えている。どうして私はこうなんだろう。欠陥でもあるんじゃないか、一生幸せになれない人間なんじゃないかとも思う。

 

ただずっと幸せな気色悪い人間はいないよな、と自分に言い聞かす。ずっと幸せだったら、そもそも幸せという概念がないはずだ。それと比較される悲しみ苦しみ焦り辛みがあるから人は幸せを幸せと感じ、慈しむのだ。

 

その一方で、「変わる」ことを怖がり悲しむところも困りものだ。失うものについてばかり考えすぎているのかも。変われば、新しく得ることができるのだろうけど、圧倒的に失う方がいやだ。

 

贅沢なんだろうか?欲しがりすぎなんだろうか。限りない欲求のせいで、今を満足に思えないのだろうか、そのくせ変わることが嫌なんだったら私は果たしてどうなりたいんだ?

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思うこと

時間がないなあ、と思う。やらなきゃいけないことをやっていたら、やりたいことをやれる時間なんてほんのちょっとだもんな。

あざとく生きることって大切だなと思う。まだうまくないけど。あざとく生きないことの方が一周回ってあざといということが分かってきた。カッコよくなんてそもそも生きれないんだ。微妙に小規模にカッコイイよりも、盛大に大規模にダサくありたい。静かに、着々と、やりたいことに向かってありとあらゆる方向を試そうと思う。